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第 4 回クロストークミーティング
「COVID-19から明らかになった総合知の重要性と東北大学の役割 ―コロナ時代の学問と大学はどうあるべきかー」
コロナとこれからの社会を広く深く考える会
1 要旨
2 本文
1 要旨
開催日時:2023年4月19日(水) 18:00~20:30
開催方式:ハイブリッド形式
対面会場:東北大学星陵キャンパス・6号館1階・カンファレンス室1
司 会:坪野 吉孝(東北大学大学院医学系研究科微生物学分野 客員教授)
記 録:大友 英二(東北大学医学部医学科 4年)
参加者:15名(対面6名、オンライン9名)(運営側除く)
●全体構成
・話題提供① 金井 浩(東北大学大学院工学研究科電子工学専攻 教授/東北大学社会にインパクトのある研究G0「社会の枢要に資する大学」プロジェクトリーダー)
・話題提供② 押谷 仁(東北大学大学院医学系研究科微生物学分野 教授)
第4回クロストークミーティングでは「COVID-19から明らかになった総合知の重要性と東北大学の役割 ―コロナ時代の学問と大学はどうあるべきかー」というテーマの下、金井浩先生と押谷仁先生の2名の先生方から話題提供をいただいた。まず金井先生からは、大学教育における教養教育の意義と必要性について伺った。続いて押谷先生からはCOVID-19パンデミックで明らかになった科学技術の限界について伺った。ディスカッションでは大学における教養教育や総合知の育み方について議論が繰り広げられた。
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●話題提供① 「「COVID-19から明らかになった総合知の重要性と東北大学の役割 ~コロナ時代の学問と大学はどうあるべきか」
金井 浩(東北大学大学院工学研究科電子工学専攻 教授 / 東北大学社会にインパクトのある研究G0「社会の枢要に資する大学」プロジェクトリーダー)
社会の枢要に資する大学の役割について討論会が開かれているが、そこで挙げられたのは、持続可能で心豊かな未来社会の実現には大学教育を深化させ、自立的に思考する人材を増やすことが必要であること、そしてそのために大学は専門教育と教養教育の位置づけを明確化するべきであるということである。
社会の停滞や少子化、大災害・感染症への事前の備えの欠如など、我々は多くの深刻な社会問題に直面しており、その解決の見通しは一向に立たないどころか危機意識すら低いまままである。その要因として、個人および官公庁、大企業の意思決定時における「科学的姿勢」の弱さが挙げられている。この弱さは非科学的で恣意的な意思決定や従来路線の維持に至るが、これらでは安心感につながる「長期的思考」が生まれないどころかトラブルによってより甚大な被害を生む。この状況は市民の心にさらなる閉塞感をもたらすばかりでなく、特に若者の大志を萎縮させてしまい、社会問題の一層の深刻化へとつながる。このような悪循環の中で大学教育が果たすべき役割は、科学的精神の醸成と人間形成の充実に力を入れた長期戦略である。大学教育がこれらの役割を十分に果たすことで、社会を牽引する人材の育成や賢明な市民の増加など、社会課題の解決のための知的環境が整い、人々が開放的な社会で力を発揮できるようになる。そして大学が社会から認められ、若者が夢を抱く環境を提供できるようになるのである。
戦後の過度な競争社会や成果主義、私利優先の市場経済原理の中で、新自由主義に基づく一連の大学改革は社会問題の解決をより困難にした。その結果、多くの学生は効率主義や自己中心主義の中で育ち、無気力で想像力を欠き、漠とした不安を抱えるようになったと考えられている。学部や大学院で課題解決能力を育て、自身の専門性の範囲で設定した目標を解決することに重点をおく専門教育は、精神面を含めた課題解決の推進能力は鍛えられる一方、社会課題解決には不十分である。そこで、これまで軽視されてきた教養教育が必要になる。教養教育では、社会課題の掘り起こし能力、礎の形成、人間形成という3点に重点が置かれる。すなわち、従来の専門教育で行われてきた研究を通じての課題解決能力だけでなく、現代社会の課題を掘り起し発見する能力、市場経済原理から離れた社会のあるべき理想の追求、価値創造に必要となる社会と連携したシナリオ作り、そして人間とは何であるべきかといった人間の根底への問い掛けによる人としての気概の育成を教養教育が担うことで、社会課題の解決のみならず人類の幸福の実現という理想に至ると期待される。
1991年に行われた大学設置基準の大綱化により、多くの大学で教養部が廃止されるなど、日本はこれまで教養教育を軽視してきた。しかし、専門教育と教養教育は役に立つ位相が異なる。専門教育は秩序の時代には有効である一方、狭い専門性では危機対応能力が弱い。しかし、教養教育は平穏な日常では役に立たないが、何らかの形で社会の前提が崩れた際、先例にはない深い洞察や非定型的な判断ができる人を育てる意味を持つ。そして今求められる総合知は、両者のボトムアップの形でしか育たない。これらを踏まえ、大学教育としては学部間の交流を進める仕組みづくりが必要となる。
東北大学で実施されているその一例として、工学部での必修科目として「工学倫理」の導入が挙げられる。これは効率重視でなく、知識の価値や面白さに気づく、賢くなることを目指す中で、学生各自が総合知を吸収する動機を養うものである。その前提の上で、学生は前述した社会課題の掘り起こし能力、礎の形成、人間形成という3点から教養を習得する。
我々は数多くの社会課題に直面している。これらの問題が解決に至らない原因と大学が抱える課題として、まず学問の細分化が挙げられる。学問の細分化や行動な専門分化により、大学で課題解決の全体像を把握せずに研究が行われるようになった。その結果、研究者は自身が開発した技術の適用を探索するのみで、実際の状況に関して広く最適な方法を選択していないのが現状である。加えて、日本の学部と修士課程ではできる限り広く学ぶことが疎かにされているため、視野が狭く、新たな選択を的確に行えない研究者が多いという、課題発見能力の養成の不足も大きな課題である。さらに、社会課題の解決に至る費用捻出を、社会市場経済が自立的に進めるように持って行くためのシナリオの設計は、学問にとって容易でない。また、研究で優れた大学がいい大学という風評により、実際には「道徳と知性のバランスの取れた教養教育を行う学部に大学院が附属していること」が大学のあるべき姿であるにもかかわらず、大学教育が専門的なものだけで終始することが当然とされてしまったことも問題点である。
以上を踏まえ、大学教育を深化させ、自律的に思考する賢人を増やすこと、そしてそのための専門教育と教養教育の位置づけを明確化することが、今求められている大学の役割であり、それを十分に果たすことが持続可能で心豊かな未来社会の実現につながるだろう。
話題提供② COVID-19と科学技術
押谷 仁(東北大学大学院医学系研究科微生物学分野 教授)
COVID-19パンデミックが発生する前、科学技術が発達した現代社会ではパンデミックのような社会問題は科学技術が解決するだろうと期待されていた。もちろん、COVID-19パンデミックにおいて、SARS-CoV-2の遺伝子配列の決定やmRNAワクチンや治療薬の開発などで科学技術は大いに貢献し多くの人々の命を救ったのは事実である。しかし、オミクロン株の登場により従来ワクチンの効果が大きく低下したことや、多数の薬剤がCOVID-19の治療薬として期待されながらそのほとんどが臨床試験で有効性が確認されなかったことなど、科学技術は当初期待されていたほど問題を解決したわけではなかったのである。
加えて、科学技術の発展を主導してきた欧米も今回のパンデミックで多数の死者を出している。例えば英国の場合、当初COVID-19に対し非常に楽観的な見通ししか持たず、そしてWHOによりCOVID-19がパンデミックの状態にあると発表した翌日には感染者の封じ込めをやめ被害軽減へ方針転換したという初期対応の失敗の積み重ねにより多数の死亡者を出した。また、アメリカではトランプ政権による英国と同様の楽観的な見通しに加え、ホワイトハウスのCDCへの圧力により初期対応に失敗し国内で多くの感染者、死者を出した。バイデン政権後はワクチンの普及による流行の鎮静化を図ったものの、実際にはワクチン未接種者が相当数いたために感染がさらに拡大し、未接種者を中心に多くの死者を出してしまっている。
また、今回のパンデミックでは死亡者の推計や政策評価に数理モデルが多用された。本来科学のエビデンスは同じ条件下で実験を繰り返し同じ結果が出るという再現性を重要視する。しかし、実際の社会で起こる現象は再現することができないので、数理モデルを構築して仮想のシミュレーションを繰り返すしか方法がない。しかし数理モデルに使用されるパラメーターなどの前提条件が実社会に即している保証はなく、加えて数理モデルでは伝播の起こりやすさや人々の行動などは均一であると仮定しているものが多いが、COVID-19の二次感染には相当の異質性があることがわかっているが、そういったことは必ずしも現在の数理モデルでは十分に考慮されていない。
現在、日本ではCOVID-19による死亡者は増加傾向にあり、高齢者福祉施設や医療機関ではクラスターが多く発生しているにもかかわらず、社会はこの事実から目を背けている。そして2023年5月8日からCOVID-19は感染症法上の5類感染症に区分されるため、それ以降は死亡者のリアルタイムのモニタリングが不可能となり、さらにCOVID-19による死者は見えにくいものとなる。だがこの流行が今後短期的に収束する見通しはなく、高齢者は今後数年にわたって亡くなり続けるだろうと予想されている。果たしてこの問題を「見ない」ことにしたままでよいのだろうか。
21世紀を生きる我々人類はCOVID-19パンデミックに限らず地球温暖化や食糧問題など多くの危機的な社会問題を抱えている。多くの人々はこれらの問題を、科学技術が何とかしてくれるに違いないと漠然と考えているが、80億人もの人口を抱えた地球は既に限界に達しており、科学技術による解決には限界があると考えるべきであろうか。そしてその科学技術の限界が短期間で明らかになったのが今回のCOVID-19パンデミックだったのではないだろうか。今回のパンデミックは高齢者が選択的に死亡するものであったため現在のように見ないふりで済まそうとしているが、今後もインフルエンザをはじめとした別の新興感染症によるパンデミックは発生すると予想され、次は子どもや若者が多く死亡するパンデミックが訪れる可能性もある。そして新興感染症に限らず我々は人類の破滅にもつながるリスクを多数抱えながら生きている。これらの科学技術では解決できない問題をどう考えるのか、我々は真剣に議論していかなければならない。
このような正解のない問題を考えるためにはいわゆる「総合知」が必要である。特に自然科学だけではなく人文・社会学の考え方を取り込んでいくことが求められる。例えば、明治からの日本の近代化やその弊害、日本と西洋のものの見方の違いなどに、今回のCOVID-19のパンデミックの問題を理解するヒントを見つけ出すことができるのではないだろうか。
ディスカッション
●単なる文系・理系の融合ではない「総合知」とは
今回のパンデミックでも明らかになった通り、もちろん科学技術は絶対に必要であるが、それだけでは解決しきれない問題が数多く存在する。それらを打開する総合知とはなんであるのか、今の段階では明確な答えはわからず、もっと学際的に議論していくべき点である。例えば、日本ではいまだ地域の結束力や一体感が残っている地方と、そのような地域の力が失われた大都市で、パンデミックにおける死者数に差が生まれたという事実がある。このような部分にも求められる総合知の答えがあるのではないだろうか。
また、欧米で見られる個別の問題に対し絶対的な正解を求める二元論的な考え方は今回のパンデミックのように正解のない問いにはマイナスに働いた一方、絶対的な正解を求めない日本的な考え方はそのような問題には有効であるのではないか、そしてそのような考え方の違いがパンデミックによる死者数の差に現れたのではないかという意見も出された。
●多様な分野の人が議論の末に生まれるのが総合知なのか、それとも個人が幅広く知識を蓄えることが総合知になるのか
個人がある程度広い視野を持っていることは必要であるが、すべての個人が多くの知識を持つことには限界があるのも事実である。一方で、それぞれの専門分野に特化した特別な技術や知識を持った人も必要であり、そのような専門家が集まって議論することも求められる。その意味では、総合知は個人が幅広い知識を持つということと、それぞれの専門性を持った人が議論して生まれるという両面があるのではないか。
●欧米と比較した日本の強み
欧米は自然科学や人文社会科学で世界を大きくリードしてきたが、だからといってそれが国内社会にどれほど浸透しているかはまた別の問題である。また、欧米の一般層では大学での教養教育よりもキリスト教の教義を優先する人もいる。さらに、その点において日本はかつての教養学部に代表されるように、アカデミアの外においても教養人であることを求める伝統があったといえる。そのため日本は断定的な政策をとらなくとも国民が自ら考えて行動できる強みがある。専門分化が進みその弊害ともとれる影響が出ている今、知識人層を育むような社会のあり方が求められているのではないだろうか。
また、アメリカはマニュアルや指針なしには動かない社会である一方、日本はそのようなものがなくても社会の基盤となる「地域の力」で危機に対応できた。これは例えば東日本大震災のような未曾有の災害後にもみられた、欧米にはない日本の強みである。しかし今、日本でも大都市圏を中心に「地域の力」や「絆」が失われつつある。COVID-19パンデミックはそのようなタイミングで日本を襲ったのだろう。
●そもそも総合知とは何か。大学で養えるものなのか。
科学技術や自然科学の発展により、人類は単線的に解決できるものはほぼ全て解決しきってしまい、単線的には解決できない問題ばかりが残っているのだろう。事実、今回のパンデミックはそのものの難しさに様々な要因が重なり、きわめて複雑な問題となっている。この問題に最適解などは存在せず、答えのない世界で何をするのかが問われる。科学に安易に普遍性や最適解、合理性を求める呪縛から離れ、もっと複線で物事を考える必要があるのではないだろうか。
また、科学をそのまま適用するような単線的思考でなく、より複線的な思考を育てるためには、大学教育だけでなく小学校や中学校での義務教育や高校から変えていく必要があるのではないだろうか。しかし、このような総合知は果たして大学、学校で教えられるのかはわからない。子どもたちに総合知を教えるのではなく、子ども達が総合知を育てていくためにどうするべきか、社会全体で考える必要がある。
ただ、総合知を大学で育む場合、それは従来のレポート課題や試験で測ることはできないため、大学がそれをどのように評価するのか、という課題がある。一つの答えとしては、学生の興味意欲の邪魔をしない寛容さがあるのではないだろうか。
●知識人である必要はない
明治期における知識人は自ら最新の情報を集め知識を蓄えていたが、現代のような情報過多の社会でかつてのような知識人には到底なれるものではない。しかし、それぞれの分野の専門家が集まっている大学という場では様々な知識を得ることができる。その点では、大学の教養教育は得られた知識を正しく使う能力を育てる、すなわち科学リテラシーを育てる意味で大きな意味があるだろう。
物事を考える材料としてある程度の知識はもちろん必要である。しかし、知識の多さが重要なわけではない。様々な考えが世の中にあり、絶対的な答えがあるわけではないことを大学で教えるべきではないか。そして大学がそのような場であるためには、大学も多様な人材がいる懐の深さや広い考えを許容し評価するシステムが必要ではないか。
●建築と土木の違いからみる総合知の育て方
建築と土木には教え方の違いがある。土木は強さや安さという一元的基準に頼るため、最適化に近い考え方をする。そのため、教育の場では間違いのない進め方を教えなければならない。一方、建築デザインはアートであるため基本的には正解がなく、教育の際は学生には自由に提案させたうえで、問題に気づかせ、より総合的に考えていく方向に徐々に導く。ここで必要なのは、「やらせてみる」と言うトライアルである。
特に正解がない分野では、「間違ってはいけない」ことに固執することは判断や行動を起こすことを困難にする。総合知によって間違いをせずに済むのではなく、むしろ総合知があればどう言う方向に修正していけば良いのかがわかる、だから気楽に挑戦できるというも
のではないだろうか。
しかし、大学教育の特性上、学生の身につけた総合知をどのように評価するかという問題があり、特に正解を求めさせる形式である試験では非常に難しい。特に国家試験と関連する学部ではどうしても正解を覚えさせる教育が必要になる。また、現在の学生を見る限り入学から時がたつにつれて学ぶ意識が低下しており、型にはめる教育によって汎用的な知の形成が上手くいっていないのではないかという印象がある。
●リベラルアーツや総合知にはいまだ遠い現状
都市計画においてはいわゆる「総合知」が求められるはずだが、現状全国の大学・職能団体では上手く蓄積、継承できているとは言えない。かつて大学に存在した教養部が学設置基準の大綱化により多くが廃止されたことにも代表される通り、日本はリベラルアーツを軽視し続けてきた。しかし、今直面する社会課題に立ち向かうとき、一見役に立たなさそうなものが必要になるときがやってくる。そのようなもの含め、大学では理系や文系というような分野を超えて広く学ぶ考える必要があり、そのための教え方や提供する場を考えることが必要である。
押谷教授が総括をしているJST科学技術振興機構の「さきがけ」には人文社会科学研究も参画することを求めているが、現在その分野からの応募が少ない。科学技術だけでは不十分なので人文科学も加える、という論調になりやすいが、人文社会系の人達もマインドセットを変え自然科学の研究者と対等に協力していくと考える必要がある。
総合知で考えるためにはテーマ設定の段階から考えなければならず、自分のテーマに足りないものを他分野から足すということだけが学際研究と考えるのは間違いである。社会の問題をどう考えるのかというテーマから学際的に議論しなければ総合知にはつながらない。
●予算が足りないのが問題ではないか
総合知はもちろん重要だが、国単位で知を総動員すれば必ず予算が関連する。それだけでなく、専門知で分業するにもそこに予算が回らないのも問題ではないか。そして、政府は実はもっと紙幣を刷ることができ、本当は使える金を使われずにいるために日本の経済規模はここ20年変わらず、予算が増えないために大学の専門知も痩せ細っていることを忘れてはならない。日本の物価は1990年代以降デフレの下にあり、衰退もやむなしと思う人も多い。しかし、それを受け入れるのではなく、実質成長を目指すためにもまずは名目成長を目指すべきではないだろうか。
一方で、経済の右肩上がりの成長ばかりを望むのではなく、むしろサスティナブルな社会を目指す必要があり、そのバランスを取らなければならない。
最後に
近代以前の西欧では、科学と技術は別々のものだった。技術は技術そのものであり、科学は技術の外に存在する哲学や宗教学を指していた。それが日本に伝わり、大学を建て始めたのはそれらが19世紀に融合した後である。その意味では日本の大学は欧米の古い大学とは違うルーツがある。人生を考えるのが本来の大学の役割であり、もともと産学連携のようなことは大学の外の話だったのだ。
東北大学の人文社会科学分野の前身である東北帝国大学法文学部は1922年に設立され、2022年で100年となった。行政官養成を役割としていた東大や京大とは異なり、当時の法文学部は真理・自由・道義をモットーとして掲げ、開設された講座は現在の人文社会科学のほぼすべてをカバーしていた。加えて、学部の枠を超えて単位を取れるような教育の実施や旧制高校出身者以外からの入学の受け入れなど、東北大学は社会に教養層を広げる役割を担っていたといえる。このように、東北大学は設立当時からリベラルな伝統がある。今回にCOVID-19パンデミックにおいても、「University」としての固有の歴史を持った大学として東北大学が取り組めることがあるのではないだろうか。
これからは「そもそも大学は何のためにあるのか」「そこで何を学ぶのか」が問われる。ただ正解や効率を求める現在の社会においても、効率的にやって得られた時間を何に使うのかが重要であり、それを改めて一つ一つ考える時代になってきているのだろう。
今、社会には正解がない問題やマニュアルがない事態はたくさんあり、そのようなものに対処する人材を育てる必要である。しかし現代の大学教育では、本来単一解がない問題を扱っているにもかかわらず、そこに単一解を求めようとするなど、時代の流れについていけていないことが問題である。
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