第 3 回クロストークミーティング
「コロナの死をどう捉えるか」

コロナとこれからの社会を広く深く考える会


1 要旨
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1 要旨
開催日時:2023年3月8日(水) 18:00~20:30
開催方式:ハイブリッド形式
対面会場:東北大学星陵キャンパス・臨床講義棟2階・臨床中講堂
司  会:坪野 吉孝(東北大学大学院医学系研究科微生物学分野 客員教授)
記  録:大友 英二(東北大学医学部医学科 3年)
参加者:16名(対面9名、オンライン7名)(運営側除く)

●全体構成
・話題提供① 押谷 仁(東北大学大学院医学系研究科微生物学分野 教授)
・話題提供② 木村 敏明(東北大学大学院文学研究科 宗教学分野 教授)

 第3回クロストークミーティングでは「コロナの死をどう捉えるか」というテーマのもと、押谷仁先生と木村敏明先生の2名の先生方から話題提供をいただいた。押谷先生からはCOVID-19による死亡者の現状と課題について、COVID-19による死亡者数は増加しているにもかかわらず対策は緩和され、人々の危機感も低下しているのではという問題点が指摘された。また木村先生からは日本社会において死というものの扱いがどのように変化していったのか、そしてCOVID-19パンデミックが「死への意識」に及ぼした影響についてお話を伺った。全体のディスカッションでは、「コロナによる死」や「コロナ禍の死」というもののあり方について議論が繰り広げられた。


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2-1 話題提供

●話題提供① 「COVID-19の死亡者の現状と課題」
押谷 仁(東北大学大学院医学系研究科微生物学分野 教授)

 現在国内ではCOVID-19対策の緩和が進み、政府も5月8日からCOVID-19の位置づけを感染症法上の5類へ移行する方針である。しかし、実はCOVID-19による死者の問題は深刻化している。COVID-19による死亡者が増加しているにもかかわらず、政府レベルでの対策や人々の意識は相反しているのである。

 かつての第1波では、COVID-19に対する治療法が確立されていなかったため致死率が高く、900人近くが死亡した。その後ワクチン接種率や弱毒化したオミクロン株の登場により致死率自体は下がった。しかしオミクロン株の登場により感染者が大きく増加し、それによって第1波を遥かに超える死亡者が発生している。実際2023年1月13日と1月14日のたった2日間で983人がCOVID-19によって死亡している。死亡者を年齢階層別にみると、オミクロン株の流行以降、80~90代の高齢者だけでなく10代~50代の死亡者も増加している。加えて都道府県レベルで考えると、2022年6月まではCOVID-19による死亡者は大都市圏と沖縄、北海道で多い傾向が見られたが、2022年7月以降は多くの規制が緩和されるに従い人口規模の小さな県でも死亡者が増加し、大都市圏に追いつこうとしている。しかし、このような深刻な状況に国民は無関心なままであり、政府は経済に重きを置いた規制緩和策を打ち出しているのが現状である。

 これまで、国内でのCOVID-19による死亡者は1日あたりおよそ100人を超えると国民の意識の変化や政府の対応に伴い減少に転じていた。しかしオミクロン株の流行以降、1日当たりの死亡者が300人や500人であっても人の行動が大きく変わることはない。すなわち、東日本大震災を超える人が短期間に亡くなっているにもかかわらず、日本はそれに無関心なのである。WHOのテドロス・アダノム事務局長はCOVID-19による死亡者について、”We must remember that these are people, not numbers.”と述べているが、その’number’にさえ関心を持っていないのが今の日本であり、それでいいのであろうか。


●話題提供②「パンデミックの死者をわたしたちはいかに受け止めてきたか」
木村 敏明(東北大学大学院文学研究科 宗教学分野 教授)


 現在みられる個人の自由の制限や規制と経済を回すための規制緩和の対立を倫理的に捉えたとき、制限の緩和による究極の被不利益者は死者であり、死者は社会を回すことによる利益を得られないという問題がある。果たして社会的防御態勢の緩和によって確実に増えるだろう死者の存在を正当化することができるだろうか。それとも「死人に口なし」として無視するべきなのだろうか。

 死者と現在生きる人とのかかわりについて、エマニュエル・レヴィナスはアウシュビッツ後の倫理として「死者に対する生者の責任」を主張しており、過去に生きた人々について考慮せずに今の社会のあり方を議論することの危険性を説いた。これに照らし合わせれば、制限緩和によって亡くなった人をどう考えるか、ということ抜きに社会のあり方を議論することはできないといえるだろう。

 古来日本では伝染病の原因は何らかの神であるとされ、それを信仰する文化があった。しかしこの神とは単に病気を起こす神だけではなく、治す神や死者をも含んでいたのであり、この神を信仰するという行為は死者供養の意味も孕んだ複合的な性格を持っていたのである。ここにも、死者と現在生きる人とのかかわりが見て取れる。
そもそも人は、自己や他者、世界を言語などの象徴によって認知する。そのような人類は、死を特別視するという特別視し生物学的な死とは別に、死を文化的な形で表現するという大きな特徴を持つ。そして死を社会に認知し、時間をかけて受け入れるプロセスとして葬送文化を発達させてきたのである。

 しかし、その葬送文化が次第にやせ細っているという指摘は前々から存在した。歴史家フィリップ・アリエスの言葉を使うと死が「社会から忌まわしく隠蔽されるもの」になりつつあり、「醜くて隠される」ものとなっているのである。その理由として死の私事化のみならず、医療化や衛生化により死を目にする機会の減少、社会的な暗黙の了解ともいえる「コード」の消滅が挙げられる。

 前述の通り葬送文化は死を社会に認知し、時間をかけて受け入れるプロセスであり、そのため日本でも葬儀は公事として村や町を巻き込んだ公的なものとして行われていた。ここでのメインは村や町の皆で死者を墓へ送り出す葬列であった。しかし戦後、新生活運動の始まりや産業化に伴い、これまでの「古い」葬送文化への疑問が投げかけられ、葬儀の簡素化、産業化も進んだ。すなわち、葬儀が共同体内互助型からアウトソーシング型へ、そして家族でさえも「お客様」である専門業者型へと移り変わった。近年の簡素化の形としては、儀式を伴わない直葬や送骨の拡大が見られる。

 その一方で、「きちんと弔えなかった」と後悔を感じる人が半数程度いるという調査結果もあり、長期的に見た場合に葬儀の簡素化が最良の選択肢であるのかは考慮の余地がある。また、身内に対しては90%が儀式を伴った葬儀をしたいと応えたという調査結果もあり、身近な人々を葬儀によって送りたいというニーズは強くある。

 COVID-19パンデミックの影響により、葬儀の規模縮小を迫られた結果、家族葬や一日葬、直葬の割合が増加し、葬儀参列者の減少も見られたほか、十分な葬儀ができなかったという遺族の後悔も多いとされている。しかしこのような「コロナによる簡素化」は首都圏で見られる一方、京阪神では見られなかった。ここには、首都圏と京阪神での伝統的習俗への意識の差が影響していると考えられる。加えて、葬儀業への影響としては、売上高だけでなく、2020年に購入された墓において、樹木葬が一般墓を上回るという現象もみられた。理由としては手間や価格、子供への負担の軽減などが挙げられ、パンデミックの影響というより経済状況の問題が影響している可能性もある。しかし古来の日本に存在した「先祖になるという意識」より「自然に還る」、の方が現代の人の心に響くのでは、とも考えられる。

 COVID-19パンデミックによる死者数は東日本大震災の犠牲者数を優に超えている。しかし、パンデミックによる死者には目が向けられていない。宗教界ではコロナ禍での死者へ目を向けようという動きはあるものの、国や自治体による追悼式は行われていない。「死者への責任を持つ生者」である我々は、果たしてこのままでよいのだろうか。


2-2 フロアディスカッション

●戦争や災害のような追悼式、石碑がパンデミックでは見られないのはなぜ
 COVID-19パンデミックは東日本大震災よりも多くの死者を出しているにもかかわらず、死者を追悼する式典や慰霊碑は見られない。しかし、東北地方でもすべての地域で東日本大震災の追悼式を行われているわけではない。単なる死者の数などではない、我々の中で「この時は公的に弔われるべき、このときは公的に弔わなくてよい」という暗黙の了解があるのではないか。

 COVID-19パンデミックと同様に、関東大震災の慰霊碑は多数存在するにもかかわらず同時期に発生し関東大震災より多くの死者を出したスペインインフルエンザの慰霊碑は非常に少ない。災害のように突然多くの人が亡くなるのではなく徐々に人が亡くなるのが理由とも考えられるが、もしかしたら感染症は人々にとって記憶にも記録にも残らない「忘れたいもの」であるのかもしれない。さらに、イスラム教文化でも災害の犠牲者は「英雄」として「天国」へ行けるとされるが、病気による死者に関することは示されていない。ここには、いわゆる穢れ文化の名残があるのかもしれない。

 パンデミック下で経済優先の規制緩和を推し進めたとき、その利益、不利益を得る人は年齢でほぼ決まってくる。すなわち、高齢者は不利益を被ることになる。現在高齢者施設に住む高齢者がCOVID-19による死者の多くを占めるにもかかわらず、その事実に一般人も報道も目を向けない。このように、木村先生の話題提供にもあったように「死が隠される」だけでなく、今の社会では死だけでなくそれに近い老いも切り離されているのではないだろうか。

●伝染病の死者が神として祀られていたのはいつ頃であり、いつ頃から変わったのか
 明治時代に欧米から近代医学が日本に広まったあたりで変わったと思われる。これは、病気が「神様のせい」よりも科学的で合理的な説明ができるようになったからだろう。

●押谷先生が話題提供の中で示した資料では感染者数と死亡者数の変化に数ヶ月のずれがあったが、これはなぜか
 以前の波では、初期には若者が感染者の中心を占め、徐々に高齢者施設などへ広がっていた。そのためタイムラグが生じていたが、第8波では波の初期から地域全体に広がり、高齢者施設でも早期に感染者が発生するため、そのようなタイムラグは少ないのだと考えられる。このタイムラグは地域での広がりの影響を受けているとも考えられる。

●団塊世代の死への意識の違い
 学生運動などが活発であった団塊の世代は宗教観が薄い傾向にある。そのため、彼らがいざ葬儀を執り行う世代となった現代では当時の価値観に則り、旧来の葬儀をやらなくてよいと感じているのではないか、そして樹木葬が増加しているという傾向も、今の少子化やいわゆるおひとり様の流れから、次の世代に墓を引き継ぐことができないという実感から生じているのではないか、という指摘があった。これに関しては、団塊の世代では若い頃の影響から自分の死に自然とのかかわりを求めるのだろうという意見が出された。

 加えて、パンデミックによりまず高齢者施設の高齢者、次に団塊の世代、というように世代ごとに順番に亡くなる構図ができており、実はこれは高齢化に悩む日本社会的としてはある意味「うまくいっている」という見方もできてしまい、それがオミクロン株以降のCOVID-19による死への意識へ影響している可能性もある。しかし、そのままでよいのかは疑問である。

●戦争の死と感染症の死への意識の差
 戦争の記憶が残され感染症の記憶が残されないという意識の差は、戦争による死は国家の暴力による公的な死であるのに対して感染症の死は私的な死であるからではないか、という質問が投げられた。実際には政府の対応によって感染症の死者数は変化するため、感染症の死は公的な死ともいえるだろう。しかしこのような感染症の死を公的なものと認めようとせずあくまで私的なもの認識するため、それらは公的なものとしての記憶に残らず、結果として過去と同じことを繰り返すことになるのだろう。加えて、戦争や災害の犠牲者と異なり感染症による死者に対しては、「行動制限を守らなかったから死んだのでは?」というような「無垢な死者」のイメージを持ちにくいのでは、という指摘もあった。

●死の受容過程のあり方と葬送形式の相関はあるのか
 葬儀の簡素化が進んでいるが、簡素だからと言って悪いものばかりではなく、逆に大きな葬儀を行うことによるストレスも存在するためただ行えばよいというものでもないのも事実である。実際に質問にあるような「お葬式の効果」があるのかはわからないが、葬儀の場で正式に読経してもらうことがストレスの緩和につながるということはあるようだ。

●コロナの死と地域医療、終末期医療
 パンデミック下で死者への無関心が進んでいることについて、これはある意味のコーピングの1つとも考えられるのではないか、そしてその中で、その中で、家族が「コロナだから仕方がない」「迷惑はかけられない」というように、家族がCOVID-19による死への納得を迫られ助けを求めにくい社会になっているのではないかという意見があった。さらに、その人が最期をどう生きるかをケアするために、治療法があるのに助けられない、コロナだから仕方がないというなし崩し的な死への納得は避け、家族のことを考えつつ新たな治療のフォローも求める意見も上がった。事実一部の高齢者施設ではSARS-CoV-2陽性者が発生したことを理由に医者が訪問を断ってしまい、本来は助かる人々が亡くなった例が数多く存在する。しかしこれらも避けられる死であったことは隠され、「コロナだから仕方がない」で済まされるのが現状である。このように、社会全体がそのような死を見えないものにしているのではないか。加えて、このような現状においては、患者だけでなく医師も患者の命にかかわる究極的な責任を負わされるという意味で過度な負担を強いられていることも事実であり、これも社会による死の隠蔽とセットになっているという見方もできる。現代の社会は自分もいずれは死にゆく存在であるという想像力が欠如した冷たい社会であり、変えていく必要があるのではないだろうか。

 そしてこのような社会において、地域医療や終末期医療の重要性が改めて感じられるという指摘があった。地域でその人が人生の最後をどう終えるのかを担う地域医療や終末期医療は、日本ではマイナーな分野とされており遅れている。しかし、真の意味で医療が患者とその家族と一体になる地域医療、終末期医療は今必要なものであり、もっと推し進めるべきではないだろうか。

 また追加として、パンデミック初期に人工呼吸器などが不足した際に医療者は極めて難しい判断を迫られたという事実がある。実はこのような判断に政府の指針などはなく、倫理的に関する厳しい選択が医療者個人に迫られていたのである。これも整理する必要がある問題の1つだろう。

●そもそも葬儀は誰のためにあるのか
 葬儀の意味は時代によって変化してきたが、死者に敬意を払うという文化を醸成するという面では、究極的には死者のためではないかという答えがあった。その一方で、残された者にとっては、読経は癒しにつながり、「生き残ってしまった」というやましさ、死者に対する責任を感じることから、むしろ生者のためではないかという意見もあった。それも葬送文化の根本にあるのだろう。

●最後に
 今回のクロストークミーディングでは、「コロナの死」というテーマについて押谷先生はデータの面から、木村先生は各文化に固有のストーリーの面から死を扱っていた。その点について、2023年1月12日にサイエンス誌に公開された論説(“‘Storylistening’ in the science policy ecosystem”)では、サイエンスだけでは変えられない問題が多数ある中で、データのようなサイエンティフィックなエビデンスと個々の体験談のようなナラティブなエビデンスを総合させるという学際的な試みが、気候変動や感染症問題などこれからの問題に対するよりよい政策形成につながると述べられていた。それぞれ何ができるのか、新しい知のあり方とは何か、そして望ましい社会のあり方とはなにかをお互いに考えるとこのような学際的な試みも進みやすいだろう。そして、パンデミックによる問題は決して新しいものではなく今まで存在していた問題が顕在化したにすぎないと考えることもでき、この問題を真剣に考え前に進むためにもより学際的な試みが求められる。

 サイエンス誌ではナラティブなエビデンスの話がされていたが、日本は政策決定のプロセスに当事者が参加しないことが大きな問題である。COVID-19パンデックに限らず同じ過ちを繰り返さないためにも今後社会の合意形成にどのように当事者が関わるかを考えるべきである。その点について、今回のパンデミックでは全員当事者であるため、「パンデミック当事者としての語り」を真剣に考え今後につなげるべきであろう。

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